下手なプライドを捨て自分を客観視して褒めてつかわす

クソみたいなプライドは捨てろ。この言葉はよく聞きますよね。確かにそうなのですけど、クソみたいに役立たないプライドの境目って難しいです。

ある意味でプライドを持って仕事をしたり、自分のプライドを保つために意地を張ることは、時には重要です。

プライドは日本語にするとだいぶ様変わりします。

  • 自尊心
  • 誇り
  • 傲慢
  • 自惚れ

どれもプライドです。
傲慢や自惚れは良くない状態ですから、これらを捨てたいですよね。

この他に直訳ではないけど、日本人は”虚栄心”(vanity)も含んでいる気がします。

虚栄心は自惚れに似ているので、真っ先に捨て去るのは虚栄心かもしれません。

奢ってもらうのに抵抗がなくなった

ある一定度の社会生活をサラリーマンとして送ると、奢ってもらったり奢ることに意味を持ちます。
例え友人同士でも、何なら親子でも特別な意識になるものです。

これは間違いでもなければ日本人らしいとも言えます。

実際、相手がお金持ちであってもなくても、自分は払えるという虚栄心(を含んで)なけなしのお金で払うことを一度や二度は経験したことがありませんか。

私は人生において、気持ちよく奢られる友人・知人たちを何人か見てきました。正直、羨ましいと思っていました。

何となく、日本人の思考からすると、奢られキャラという概念があって、似合わない人がやると興ざめなことは感じませんか。私もそういう考え方でした。

虚栄心だけとはいいませんが、余計な感情を保ちながらうつ状態を克服するのは厄介でした。だから全部捨て去ろうと考えたわけです。

今では「ごちになります」「ごちそうさまでした」「助かります」こういった言葉でいつも奢ってもらっています。

奢ってくれる方が素晴らしい人物であって、私は単に恩恵を受ける側に過ぎません。いつしか、奢られキャラのような立ち位置にいます。

奢られるにしても、相手に気を遣わせたくないので、気持ちよく奢ってもらうには笑顔が大切です。笑顔はいつでも大切ですが、特にそう思います。

嬉しい、助かる、ありがとうの気持ちしかありませんから、下手な虚栄心や自尊心の低下などと考えず に、感謝の念だけで良いはずです。

1つの例に過ぎませんが、奢られることに抵抗を覚えず、何も心が動じないで感謝の言葉と笑顔で接することができたなら、うつ状態は回復している気がしました。

最初はなかなかできないものです。特にうつ状態で悶々としているときは全くできていませんでした。結果的に奢ってもらったのに不満そうな顔だったでしょう。

自尊心は高める

1つの例として奢ってもらうことを書きました。他にも自分自身の見栄えであったり、手持ちのアイテムであったり、虚栄心は際限がありません。

一方で、同じプライでも自尊心だけは保ち続けないと本末転倒になってしまいます。

下手なプライド(傲慢、虚栄心)は捨て去っても、自分を尊重することだけは逆に高めるように努めました。

振り返ると滑稽なことでも、当時は自分で自分を褒めることを常にしていました。
やろうと考えたことを達成できたなら、例えそれが早起きや掃除、外出、日光浴、と他愛も無いことでも出来たことを”スゴい”と心で念を押したものです。

この辺は個々の心の動きですから、決まった正解はないと思っています。

それぞれのやり方で自分を褒めてあげましょう。

チェックをする

少なくても私は、その日の計画(といっても箇条書き)と実際に行動したことを日記のように書き出してチェックしていました。
その日の終わりに、計画で達成が出来たものはそのままに、実際に行動が出来たかを確認するような感じで、計画・予定をしていて出来なかったことは、明日に再び持ち越すという感じでした。

この時に自分を褒めるわけですね。
実際、その気持ちや言葉を書き足しました。(スゴい!これで次もまたやろう、今度はより○○でやろう、出来たけど大変だった、など)

これは乗り越えた今も実践していることの1つで、何かを反省はしても猛省はしません。
反省の言葉通り、1日を省みて「あっ、出来なかった」「出来た!」の判断を下すだけです。ついでに出来たことは褒めてあげます。

出来なかったのだから、明日はやらないとね。そのくらいの気持ちです。

そして出来ても出来なくても、決して後悔はしない。出来なかった今があるだけで、出来た未来にもう居ませんからね。

これ、子育てに似ています。私も親として多少の経験があります。

そうなんです。私のうつ状態に陥ったパターンは、幼少期に褒めてもらえなかったのが影響しているみたい(?)です。
何をしてもダメだといわれ、足りないといわれ、そういう父親でした。
だから、自分を褒めてあげることは大事です。

客観視できるかどうか

アレコレと御託を並べても、結局は客観視ができるかどうかだと思っています。

自分の振るまいや行動を、客観的に見て適当かどうか、逆の立場ならどう思うか。
出来たか出来なかったか、それは自分自身のこととはいえ、客観的に出来たとするかどうかになります。

どうもうつ状態の頃は、そこまで頭の中に余裕がなく、目の前のことを処理するだけで手一杯、頭一杯でした。反省をする余裕もありませんでした。

だから、生き急いでいる人を見ると、一旦立ち止まった方が良いのになと思うことがあって、親密な関係には助言しています。

でも、立ち止まるのは怖いですよね。

それは今になって理解することができました。
なんとかなるなら、立ち止まる必要はないのでしょう。私は立ち止まらないと打破できませんでした。その分だけ実社会では苦しくなるので、一長一短の気がしています。

自分の振るまい方や行動を自覚することができていれば、それはうつ状態ではないでしょう。
そして褒めてあげましょう。自尊心は高めないとまたうつ状態へ逆戻りです。

うつ状態を克服した経験則から、日記を付けることは他の効果も含んで有効でしたから、取り入れるのをお薦めします。

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